「あの人」
ザー。ザー。
春雨が降る。
仕事がふいにキャンセルになったものだから、サクラは娘のもとに訪れた。
突然に雨に降られたものだから、体はびしょぬけになってしまったけれど、構わなかった。
雨は好きだ。
既に他界した妻の胡蝶も、娘の砂鳥も雨が好きだったから、よく三人で雨の中を歩いては三枝(さえぐさ)に叱られた。時には烏山(からすやま)も一緒に歩いた。雨好きが他にも居るなんて、と喜んでいた。そして、一緒に三枝に叱られていた。
あのホームキーパーは、家事のことになると誰にでも厳しい。
雨が降っているから、烏山が来ているのかもしれない。
面白い、と思った。
雨と砂鳥のモチーフで絵を描こうと思っていた。彼が砂鳥を愛でて後には、特に筆がのった。
そういえば。
扉を開けようと思いながら、サクラは旧友を思い出した。
密は、いるだろうか。
胡蝶をこの部屋に隔離したとき、何も言わず、けれど泣いた密。
砂鳥に同じ事をしたときには、合い鍵を欲しがった密。
もしかしたら、彼女は胡蝶と砂鳥を同一視してはいないだろうか。
愚かなことだと思った。
確かに姿形はとても似ている。砂鳥が後数年成長すれば、胡蝶と初対面した時の年齢になる。おそらく、その姿を写真に撮って並べたならば、2人を見分けられるものは居ないだろう。
けれど、2人は全く違う、とサクラは思っている。
胡蝶ならば、その瞳に映るのは自分1人であれ、と思う。
他の誰も2人の間には入れたくはない。
だからこそ、胡蝶を囚えた。この部屋に閉じこめた。
短い命だと知っていたからこそ、どこまでも一緒にいたかった。死んで後を追いたかった。
いまも、そう思っている。
この世で自分が愛するのは彼女ただ独りだ。
砂鳥ならば、今この瞬間に死んでしまっても構わないと思う。
他の誰でも、攫っていくのならば攫えばいい。自殺するのならば、すればいい。
けれど、その姿をサクラに描かせろとは思う。
彼女は唯一、サクラが人物画を描きたいと思った女だった。
いまも、そう思っている。
この世で自分が描きたいのは、彼女ただ独りだ。
「おとうさん、あたしを見て。あたしだけを、見て。」
絵を描く度に、砂鳥はそう言う。
おかしな事を言う。彼女の喉に散った赤い跡の数、額に付けられた疵痕すらもじっくりと眺めて、サクラは描いていると言うのに。
「ちがうよ。おとうさんは、あたしを見てないよ。おとうさんは、モデルをみてるだけだよ。」
その通りだと、サクラは頷く。
彼の目の前に居るのはモデルだ。唯一無二のモデルだ。
「さとりをみてよ。あたしを、みてよ。シラタマだってそういってる。おかあさんと重ねてもいいから。カラスみたいにあたしをとおして、誰か見ていいから。「さとり」をみてよ。」
胡蝶と同一視など、出来るわけがないだろう。とサクラは笑った。
おかしくてたまらなかった。
それに、お前の名前が「砂鳥」だろうと「白珠」だろうと何だろうと構わない。子どものごっこ遊びなどに、構っては居られなかった。
胡蝶が亡くなった頃に死んだ、白いメス猫「白珠」。胡蝶も砂鳥も可愛がっていたあの猫を、忘れないための「ごっこ遊び」。サクラはそう思っていた。三枝や密が二重人格だのなんだの言っていたが、サクラは取り合わなかった。
烏山の性癖には少々意表を突かれたが、それだけだった。若い頃からの付き合いであったし、彼は胡蝶には一切色目を使わなかった。それで充分だった。
砂鳥ぐらい、好きにしろと思っていた。
ザー。ザー。
春雨が降る。
三枝は最近ポプリにはまっていると言っていたから、お土産に買ってきたのだが、使うだろうかと思いながら、サクラは扉を開けた。
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