3人目・・・ミツ
「 囚われ蝶の幸いを、誰が知るというのかしら 」
「あの人」は絵を描く人だった。
鬼才だと言われていた。
「あの人」が描けば、ただの電柱ですら全く別物のようだった。風景画を主としていたのは、正解だったとミツは未だに思っている。
今現在「あの人」が描くのは人物画だが、その絵を見る度にミツは苦しくなる。余りにもむき出しな感情。溢れんばかりの独占欲。たった1人しかモチーフにしない、その人物画への評価はとても高い。けれども、ミツはその絵を見る度に、片端から破きすて、燃やしてしまいたくなる。
我慢できない。
いずれ、本当にそうしてしまいそうだ。
ミツは「あの人」と同じアトリエに居た。
穏やかな人柄に惹かれてた。そして、「あの人」が描く激しい絵に強烈にひきつけられた。
それは、今でも変わらない。
だからこそ何も言えず、我慢してきた。10年以上の年月。ミツは、「あの人」の絵を見るのと引き換えに様々なものに対して沈黙を護った。
ただ、何もしないでは居られず、度々部屋を訪れた。
外の世界とは断絶されたような印象すら抱かせる、静かな部屋。
住み込みのホームキーパーと、無口な少女。
たった2人だけが暮らす、その部屋には、おびただしい量の絵が飾られていた。全て、少女をモチーフにした絵だった。時折カラスと名乗るアートディーラーがその絵を展示し販売するが、絵はすぐに増えた。
「あの人」の創作意欲は衰えることが無い。
絵に囲まれて、少女はどんどん無口になっていった。
ミツはそれが、哀しい。
昔、ミツが来る度に夜通し話続けた頃の彼女は、どこに消えてしまったのだろう。時折出る「お話して」という言葉が、唯一の名残だった。
どこで間違ってしまったのだろう。
どこで、「あの人」と少女は間違ってしまったのだろう。
ミツにはわからない。
出来るのならば、彼らが会ったその時からやり直してあげたかった。
チョウと呼ばれたあの子の体内から、彼女が生み出されたその時までに。
あの人と胡蝶の実娘として、砂鳥が誕生する前に。
それが叶わないならば、せめて。
今、ミツが感じる「あの人」の視線が、砂鳥にそそがれなくなる前に。
* * * * * *
ザー。ザー。
春雨が降る。
哀しい気持ちでミツは、部屋の前に立った。
合い鍵でドアを開けると、梅の香りと、元気な女の声がした。カラスも、シラタマも、もう居るようだ。
握りしめた合い鍵を、そのまま玄関に置く。「あの人」からの信頼を、ミツはこれから裏切りにいく。それでももう、我慢は出来なかった。絵を破り捨てるか、その原因となっている籠の鳥を逃がすか。どちらかを、選ぶ時が来ていたのだ。
「いらっしゃい、姉さん。皆、お待ちかねだよ」
10年間、「あの人」の家に住み込みとして働き続けているサエが、ミツに微笑んで、寝室を指さす。
「貴方は、どこまで気付いてそう言うのかしら?」
「どこまでって?」
サエが小首を傾げた。そして、おかしそうに笑った。
「どこまででも、いいでしょう。大丈夫だよ、姉さん。私は姉さんに「あの人」のスケジュールを尋ねられたことも、皆さんが示し合わせたように集まったことも、言わないから。それに、こんなにも焚かれた梅のお香も、「あの人」が来る前に、きちんと消しておくよ。大丈夫、私は「あの人」のもとで10年間働いているんだもの。慣れているよ」
「そうね」
ミツは頷くと、寝室に向かった。
確かに、サエは慣れていた。カラスの砂鳥への行為も、シラタマの好意にも、最初に気付いたのはサエだった。それをミツに教えたのもサエだった。もっと昔、「あの人」が駆け出しの画家だった頃から、チョウとの結婚や砂鳥の出産の際に、「あの人」とチョウの暮らしを家事の面から支えてきたのはサエだった。
つかず、離れず。
ただ、家事のことだけをして、私生活から1歩離れた場所で、サエは「あの人」を支え続けていた。それなのに、「あの人」から離されて砂鳥の世話を命じられた。
だから、サエは怒ったのだろうか。だから、サエはミツ達に手を貸してくれるのだろうか。
わからなかった。
尋ねた所でサエはただ微笑むばかりだった。
それでも、もう後戻りは出来ない。
梅の香りがする。
ミツはゆっくりと、寝室の扉を開いた。
ふと。チョウが死んだのも、この寝室だったことを思い出した。
嫌なタイミング。何故、今それを思い出したのか。
まっすぐにミツを見つめる黒い瞳のせいだろうか。もうすぐ、この瞳も見れなくなる。
ミツはそれが哀しく、そして嬉しかった。
世界が閉じきる前に、あの視線に少女が壊されてしまう前に。彼女を逃がそう。
ミツは、ゆっくりと寝室の扉を閉めた。
梅の香りだけが、静かに流れ込んでくる。
… … … start talking“カラス” |
Copyright(C)2008 yuzuru sakimori All Rigth Reservrd