0人目・・・サエ
トリが消えた。
カーペットの上に居たはずのトリは、サエがクッキーを用意しに台所へ行く為に目を離した、ほんの僅かな間に、消えてしまった。
がっかりだ。
サエはしゅん、として持っていた器をテーブルの上に置いた。
真っ黒な目をした、可愛らしい小さなトリだったのに。つい先程まで、可愛らしいさえずりを聞かせてくれていたのに。せっかく、懐いてきてくれたと思ったのに。
全てはサエの思い違いだったのだろうか。
トリは、消えてしまった。
こんな調子では、一体いつになったらきちんとお世話が出来るようになるのだろう。サエはため息をついた。
サエは住み込みのハウスキーパーだ。
炊事洗濯から庭の手入れまで。家の仕事はなんでもやる。
今年で23歳になるが、仕事自体は10年目を迎える。偏屈な画家、賑やかな家族、決して外に出たがらない男。そんな人々を相手に仕事を続け、それなりにどんな家庭でも対応出来るようになってきた、と思う。
だが、今回は手強い。
高層ビルの一室。そこの主人は、黒い目をしたトリ、だったのだ。
仕事内容はそのトリの世話と、部屋の掃除。そして、時折訪れるトリの飼い主と、その友人達をもてなすこと。依頼主はサエに仕事と与えてくれ、尚かつ初めての雇い主であった「あの人」であったので、サエは少々の事には目をつぶり、仕事依頼を引き受けた。金持ちの道楽というやつか、と思ったりもした。
けれども、日々この生活を続けるにつれて、サエは、困惑を深めていく。
仕事内容は当初言われたものと何も矛盾することはない。トリの世話は簡単で、部屋の掃除はサエが得意とするところであった。依頼主はふらりと訪れ、トリで遊ぶ。遊ぶことに満足すると、またふらりと去っていく。依頼主の友人らも似たり寄ったりで、気まぐれに訪れては去っていく。
奇妙であると言えば奇妙だが、楽であると言えば楽であった。
画家に八つ当たりで殴られることもなければ、家族の喧嘩に巻き込まれる事もない。男に襲われそうになることも、無い。それなのに、サエは早くこの仕事が終わらないだろうか、と思ってしまう。
あのトリが、そうさせるのか。
真っ黒な、透き通った瞳。
じっと見つめられる度に、サエは落ち着きを無くす。じりじりと、背中が焼かれていくようだった。ゆっくりと、世界が閉じていくような感覚。焦りと不安が、心中を満たす。それなのに、何故だろう。心の底は、凪いでいる。落ち着いていくのだ。このまま、ここに囚われていたくなる。
あの瞳に。
これはなんて、危うい。
サエがそれでも、その感覚に浸りきらないのも、やはりトリのおかげだった。そんな瞳をしながらも、トリはサエに懐かないのだ。
だからこそ、懐かせたい。
だからこそ、早く逃げたい。
矛盾する思いを抱えて、サエは、今、動きさせないままでいた。
もうすぐ、何かが起きる。その時、私は動き出す。サエはそう確信していた。
その瞬間が待ち遠しくもあり、恐ろしくもある。
ザー。ザー。
窓を打つ雨音に、サエは顔を上げた。
春雨だ。
トリが消えたのは、この、天気のせいだろうか。
野鳥のように、あれは晴れるとよくさえずり、天気が崩れるにつれて静かになっていくから。
それとも。
サエは立ち上がった。動物は人の気配に敏感だ。もしかしたら、もうすぐ誰か、来るのかも知れない。
お湯を沸かし、客人に備えよう。
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