人と対峙するということは、自分自身と対峙することなのではないか。
『ひとり日和』の主人公・知寿は春・夏・秋・冬・春の手前という約一年間を、吟子という老女の家で過ごす。
知寿の視線は、季節を経ることに変化し若者独特のいやらしさが抜けていくように、私は感じた。
吟子という女性は、知寿を客人としても家族としても扱わない。これは「茶碗洗いは二三日放置することもあるし、掃除機をかけるのも面倒らしく、猫の毛があちらこちらに落ちている。」状態を知寿が「思い立って家中を掃除してみた。」が「特に礼を言われることはなかった。」という記述からも、わかる。
また、吟子と知寿の生活には、強要はほとんど存在しない。
だが、決して無関心ではなく、女同士の付き合い方をしていると思う。
例えば、知寿はホットパンツやキャミソールを着ることで、自分自身の若さを吟子に見せつけようとする。また、吟子は吟子で、自分自身が恋をしていることを、遠慮無く表現していく。
そのような関係であるので、知寿は母親に対して感じる「負い目」という思いを、吟子には抱かない。これは、「同じ血が通っていても、心まで似ているわけではない。わたしは思春期のころから、母の若々しさとかなれなれしさが、心の中ではいちいち気に障っていた。理解されないことではなく、理解されることがなんとなくいやだったのだ」と述べ、「二人だけの生活に息苦しさを与えないよう(中略)疲れや世間体のためにそうなりきれない母が、中途半端で恥ずかしかった。」と母に対しては思う知寿が、吟子には思わないことから伺える。
さて、母が再婚の話を知寿に持ちたことで、母子の関係は一気に薄まる。
これは、知寿が付き合った男性にも言えることである。
知寿と男性らにおいては、必ず男性から離れていく。これは、何故だろうか。知寿には親しくなった人の物を盗むという癖がある。頼めば貰えるような些細なものを、彼女はこっそり盗みだし、靴箱の中にしまう。そして、別れてしまった後も、その品物は彼女を慰める。
彼女は、何故、人の物を盗むのか。
盗むことで、彼女は何かを試しているのではないか。また、品物を手にすることで、常に関係性の終了に備えているのではないか。
だが、吟子との関係において、それが成せない。
物語中、唯一「一軒家」を持つ者として表現される吟子は、知寿から離れる必要がない為である。彼女は不動なものであり、離れる為には知寿が動くしかない。その必要性と困難さ、そして吟子との付き合い方が、誰とも異なったことに、知寿は徐々に気付いていく。そして、寮生活を決意し家を出る前夜、知寿は吟子に死んだら家をあげる、と言われる。
帰るべき場所を、与えられるのである。
これにより、知寿はようやく靴箱に収められている品物を手放し、それらは「苦かったり甘かったりする記憶を、自分一人で楽しむ手伝いをするだけだった」と振り返る。過去を含め、現在の自分と向き合うのである。
己と対峙することは怖い、と私は思う。
けれども、だからこそ人は他者を付き合い、それを経て自分自身と対峙しようと努める。そして、それを重ねていくからこそ他者に何かを与え、明け渡すことが出来るのだろうと私は思う。
ちょうど1年前の文章。修正よりも当時の勢いを優先。
「家族」というものの捉え方が、徐々に変化しているな、と感じていた頃に読んで
いくらかの示唆を得た作品でした。